上州岩鼻の代官を斬り殺した国定忠次一家の者は、赤城山へ立て籠って、八州の捕方を避けていたが、其処も防ぎ切れなくなると、忠次を初、十四、五人の乾児《こぶん》は、辛《ようや》く一方の血路を、斫《き》り開いて、信州路へ落ちて行った。
夜中に利根川を渡った。渋川の橋は、捕方が固めて居たので、一里ばかり下流を渡った。水勢が烈しいため、両岸に綱を引いて渡ったが、それでも乾児の一人は、つい手を離したゝめ流されてしまった。
渋川から、伊香保街道に添うて、道もない裏山を、榛名にかゝった。一日、一晩で、やっと榛名を越えた。が、榛名を越えてしまうと、すぐ其処に大戸の御番所があった。
信州へ出るには、この御番所が、第一の難関であった。此の関所をさえ越してしまえば、向うは信濃境まで、山又山が続いて居るだけであった。
忠次達が、関所へかゝったのは、夜の引き明けだった。わずか、五、六人しか居ない役人達は、忠次達の勢に怖れたものか、彼等の通行を一言も咎めなかった。
関所を過ぎると、遉《さすが》に皆は、ほっと安心した。本街道を避けて、裏山へかゝって来るに連れて、夜がしらじらと明けて来た。丁度上州一円に、春蚕《はるご》が孵化《かえ》ろうとする春の終の頃であった。山上から見下《おろ》すと、街道に添うた村々には青い桑畑が、朝靄のうちに、何処までも続いて居た。
関東縞の袷に、鮫鞘の長脇差を佩《さ》して、脚絆草鞋で、厳重な足ごしらえをした忠次は、菅のふき下しの笠を冠って、先頭に立って、威勢よく歩いて居た。小鬢の所に、傷痕のある浅黒い顔が、一月に近い辛苦で、少し窶《やつ》れが見えたゝめ、一層凄味を見せて居た。乾児も、大抵同じような風体をして居た。が、忠次の外は、誰も菅笠を冠っては居なかった。中には、片袖の半分断《ちぎ》れかけて居る者や、脚絆の一方ない者や、白っぼい縞の着物に、所々血を滲ませて居るものなども居た。
街道を避けながら、而も街道を見失わないように、彼等は山から山へと辿った。大戸の関から、二里ばかりも来たと思う頃、雑木の茂った小高い山の中腹に出ていた。ふと振り顧《かえ》ると、今まで見えなかった赤城が、山と山の間に、ほのかに浮び出て居た。
「赤城山も見収めだな。おい、此処いらで一服しようか。」
そう云いながら、忠次は足下《あしもと》に大きな切り株を見付けて、どっかりと、腰を下《おろ》した。彼の眼は、暫くの間、四十年見なれた山の姿に囚われていた。赤城山が利根川の谿谷へと、緩い勾配を作って居る一帯の高原には、彼の故郷の国定村も、彼が売出しの当時、島村伊三郎を斬った境の町も、彼が一月前に代官を斬った岩鼻の町もあった。
国越をしようとする忠次の心には、さすがに淡い哀愁が、感ぜられて居た。が、それよりも、現在一番彼の心を苦しめて居ることは、乾児の始末だった。赤城へ籠った当座は、五十人に近かった乾児が、日数が経つに連れ、二人三人潜かに、山を降って逃げた。捕方の総攻めを喰ったときは、二十七人しか残って居なかった。それが、五、六人は召しとられ、七、八人は何処ともなく落ち延びて、今残って居る十一人は、忠次のためには、水火をも辞さない金鉄の人々だった。国を売って、知らぬ他国へ走る以上、此先、あまりいゝ芽も出そうでない忠次のために、一緒に関所を破って、命を投げ出して呉れた人々だった。が、代官を斬った上に、関所を破った忠次として、十人余の乾児を連れて、他国を横行することは出来なかった。人目に触れないうちに、乾児の始末を付けてしまいたかった。が、みんなと別れて、一人限《ぎり》になってしまうことも、いろいろな点で不便だった。自分の目算通に、信州追分の今井小藤太の家に、ころがり込むにした所が、国定村の忠次とも云われた貸元が、乾児の一人も連れずに、顔を出すことは、沽券《こけん》にかゝわることだった。手頃の乾児を二、三人連れて行くとしたら、一体誰を連れて行こう。そう思うと、彼の心のうちでは、すぐその顔触が定《きま》った。平生の忠次だったら、
「おい! 浅に、喜蔵に、嘉助とが、俺と一緒に来るんだ! 外の野郎達は、銘々思い通りに落ちて呉れ、路用の金は、分けてやるからな!」
と、なんの拘泥《こだはり》もなく云える筈だった。が、忠次は赤城に籠って以来、自分に対する乾児達の忠誠をしみじみ感じていた。鰹節や生米を噛って露命を繋ぎ、岩窟《いわや》の樹の下で、雨露を凌いで居た幾日と云う長い間、彼等は一言の不平を滾《こぼ》さなかった。忠次の身体が、赤城山中の地蔵山で、危険に瀕したとき、みんなは命を捨てて働いて呉れた。平生は老ぼれて、物の役には立つまいと思われて居た闇雲の忍松《おしまつ》までが、見事な働きをした。
そうした乾児達の健気な働きと、自分に対する心持とを見た忠次は、その中の二、三人を引き止めて他の多くに暇をやることが、どうしても気がすゝまなかった。皆一様に、自分のために、一命を捨てゝかゝっている人々の間に、自分が甲乙を付けることは、どうしても出来なかった。剛腹な忠次も、打ち続く艱難で、少しは気が弱くなって居る故《せい》もあったのだろう。別れるのなら、いっそ皆と同じように、別れようと思った。
彼は、そう決心すると、
「おい! みんな!」と、周囲に散らかって居る乾児達を呼んだ。烈しい叱り付けるような声だった。喧嘩の時などにも、叱咤する忠次の声だけは、狂奔して居る乾児達の耳にもよく徹した。
草の上に蹲まったり、寝ころんだり、銘々思い/\の休息を取って居た乾児達は、忠次の一喝でみんな起き直った。数日来の烈しい疲労で、とろ/\眠りかけて居るものさえあった。
「おい! みんな。」
忠次は、改めて呼び直した。『壺皿見透し』と、若い時綽名を付けられていた、忠次の大きい眼がギロリと動いた。
「みんな! 一寸耳を貸して貰いてえのだが、俺《おらあ》これから、信州へ一人で、落ちて行こうと思うのだ。お前達を、連れて行きてえのは山々だが、お役人をたゝっ斬って、天下のお関所を破った俺達が、お天道様の下を、十人二十人つながって歩くことは、許されねえ。もっとも、二、三人は、一緒に行って貰いてえとも思うのだが、今日が日まで、同じ辛苦をしたお前達みんなの中から、汝《われ》は行け汝《われ》は来るなと云う区別は付けたくねえのだ。連れて行くからなら、一人残らず、みんな一緒に連れて行きてえのだ。別れるからなら、恨みっこのねえように、みんな一様に別れてしまいてえのだ。さあ、茲に使い残りの金が、百五十両ばかりあらあ。みんなに、十二両宛、呉れてやって、残ったのは俺が貰って行くんだ。銘々に、志を立てゝ落ちて呉れ! 随分、身体に気を付けろ! 忠次が、何処かで捕まって、江戸送りにでもなったと聞いたら、線香の一本でも上げて呉れ!」
忠次は、元気にそう云うと、胴巻の中から、五十両包みを、三つ取り出して、熊笹の上に、ずしりと投げ出した。
が、誰もその五十両包みに、手を出すものはなかった。みんなは、忠次の突然な申出に、どう答えていゝか迷って居るらしかった。一番に、乾児達の沈黙を破ったのは、大間々《おおまま》の浅太郎だった。
「そりゃ、親方悪い了簡だろうぜ。一体俺達が、妻子眷族を見捨てて、此処までお前さんに、従いて来たのは、なんの為だと思うのだ。みんな、お前さんの身の上を気遣って、お前さんの落着く所を、見届けたいと思う一心からじゃないか。いくら、大戸の御番所を越して、もうこれから信州までは大丈夫だと云ったところで、お前さんばかりを、一人で手放すことは、出来るものじゃねえ。尤も、こう物騒な野郎ばかりが、つながって歩けねえのは、道理なのだから、お前さんが、此奴だと思う野郎を、名指してお呉んなせえ。何も親分乾児の間で、遠慮することなんかありゃしねえ。お前さんの大事な場合だ! 恨みつらみを云うような、ケチな野郎は一人だってありゃしねえ。なあ兄弟!」
みんなは、異口同音に、浅太郎の云い分に賛意を表した。が、そう云われて見ると、忠次は尚更選みかねた。自分の大事な場所であるだけ、彼等の名前を指すことは、彼等に対する信頼の差別を、露骨に表わす事になって来る。それで、選に洩れた連中と――内心、忠次を怨むかも知れない連中と――其儘、再会の機も期し難く、別れてしまわねばならぬ事を考えると、忠次はどうしても、気が進まなかった。
忠次は口を噤《つぐ》んだ儘、なんとも答えなかった。親分と乾児との間に、不安な沈黙が暫く続いた。
「あゝ、いゝ事があらあ。」釈迦の十蔵と云う未だ二十二、三の男が叫んだ。彼は忠次の盃を貰ってから未だ二年にもなって居なかった。
「籤引がいゝや、みんなで籤を引いて、当った者が親分のお供をするのがいゝや。」
当座の妙案なので、忠次も乾児も、十蔵の方を一寸見た。が、嘉助という男がすぐ反対した。
「何を云ってやがるんだい! 籤引だって! 手前《てめえ》のような青二才に籤が当って見ろ、却って親分の足手纏いじゃねえか。籤引なんか、俺あ真《ま》っ平《ぴら》だ。此麼《こんな》時に一番物を云うのは、腕っ節だ。おい親分! くだらねえ遠慮なんかしねえで、一言、嘉助ついて来いと、云ってお呉んなさい。」
四斗樽を両手に提《さ》げ乍ら、足駄を穿いて歩くと云う嘉助は一行中で第一の大力だった。忠次が心のうちで選んで居る三人の中の一人だった。
「嘉助の野郎、何を大きな事を云ってやがるんだい。腕っ節ばかりで、世間は渡られねえぞ。まして此れから、知らねえ土地を遍歴《へめぐ》って、上州の国定忠次で御座いと云って歩くには、駈引万端の軍師がついて居ねえ事には、どうにもならねえのだ。幾ら手前《てめえ》が、大力だからと云って、ドジばかりを踏んで居ちゃ、旅先で、飯にはならねえぞ。」
そう云ったのは、松井田の喜蔵と云う、分別盛りの四十男だった。忠次も喜蔵の才覚と、分別とは認めて居た。彼は心のうちで喜蔵も三人の中に加えて居た。
「親分、俺あお供は出来ねえかねえ。俺あ腕節は強くはねえ。又、喜蔵のように軍師じゃねえ。が、お前さんの為には、一命を捨ててもいゝと、心の内でとっくに覚悟を極めて居るんだ。」
闇雲の忍松が、其処迄云いかけると、乾児達は、周囲から口々に罵った。
「何を云ってやがるんだい、親分の為に命を投げ出して居る者は、手前一人じゃねえぞ、巫山戯《ふざけ》た事をぬかすねえ。」
そう云われると、忍松は一言もなかった。半白の頭を、テレ隠しに掻いて居た。
そうして居るうちに、半時ばかり経った。日光山らしい方角に出た朝日が、もう余程さし登って居た。忠次は、黙々として、みんなの云う事を聴いて居た。二、三人連れて行くとしたら、彼は籤引では連れて行きたくなかった。やっぱり、信頼の出来る乾児を自ら選びたかった。彼は不図一策を思い付いた。それは、彼が自ら選ぶ事なくして、最も優秀な乾児を選び得る方法だった。
「お前達のように、そうザワ/\騒いで居ちゃ、いつが来たって、果てしがありゃしねえ。俺一人を手離すのが不安心だと云うのなら、お前達の間で入れ札をして見ちゃ、どうだい。札数の多い者から、三人だけ連れて行こうじゃねえか。こりゃ一番怨みっこがなくって、いゝだろうぜ。」
忠次の言葉が終るか終らないかに、
「そいつあ思い付きだ。」乾児のうちで一番人望のある喜蔵が賛成した。
「そいつあ趣向だ。」大間々の浅太郎もすぐ賛成した。
心のうちで、籤引を望んで居る者も数人あった。が、忠次の、怨みっこの無いように、而も役に立つ乾児を、選ぼうと云う肚が解ると、みんなは異議なく入れ札に賛成した。
喜蔵が矢立を持って居た。忠次が懐から、鼻紙の半紙を取り出した。それを喜蔵が受取ると、長脇差を抜いて手際よくそれを小さく切り分けた。そうして、一片《ひときれ》ずつみんなに配った。
先刻《さっき》からの経路を、一番厭な心で見て居たのは稲荷の九郎助だった。彼は年輩から云っても、忠次の身内では第一の兄分でなければならなかった。が、忠次からも、乾児からも、そのようには扱われて居なかった。去年、大前田の一家と一寸した出入のあった時、彼は喧嘩場から、不覚にも大前田の身内の者に引っ担がれた。それ以来、彼は多年培って居た自分の声望がめっきり落ちたのを知った。自分から云えば、遥かに後輩の浅太郎や喜蔵に段々凌がれて来た事を、感じて居た。そればかりでなく、十年前迄は、兄弟同様に賭場から賭場を、一緒に漂浪して歩いた忠次迄が、いつとなく、自分を軽んじて居る事を知った。皆は表面こそ『阿兄《あにい》! 阿兄!』と立てて居るものの、心のうちでは、自分を重んじて居ないことが、あり/\と感ぜられた。
入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今迄、表面だけは兎も角も保って来た自分の位置が、露骨に崩されるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れて呉れそうな人間を考えて見た。が、それは弥助の他には思い当らなかった。弥助も九郎助と同様に、古い顔であって、後輩の浅太郎や、喜蔵などが、グン/\頭を擡げて来るのを、常から快からず思って居るから、こうした場合には、きっと自分に入れて呉れるだろうと思った。が、弥助だけは自分に入れて呉れるとしても、弥助の一枚だけで、三人の中に入ることは考えられなかった。浅太郎には四枚入るだろうと思った。喜蔵に三枚入るとして、十一枚の中、後へ四枚残る。その中、自分の一枚をのけると三枚残る。若し、その中、二枚が、自分に入れられて居れば、三人の中に加わることは出来るかも知れないと思った。が、弥助の他に、自分に入れて呉れそうな人は、どう考えても当がなかった。ひょっとしたら、並川の才助がとも思つた。あの男の若い時には、可成り世話を焼いてやった覚えがある。が、それは六、七年も前のことで、今では『浅阿兄、浅阿兄』と、浅にばかり付いて居る。そう思うと、弥助の入れて呉れる一枚の他には、今一枚を得る当は、どうにもつかなかった。乾児の中で年頭《としがした》でもあり、一番兄分でもある自分が、入れ札に落ちることは――自分の信望が少しも無いことがまざ/\と表われることは、もう既定の事実のように、九郎助には思われた。不愉快な寂しい感じに堪えられなくなって来た。
一本しか無い矢立の筆は、次から次へと廻って来た。
「おい! 阿兄! 筆をやらあ。」
ぼんやり考えて居た九郎助の肩を、つゝきながら横に居た弥助が、筆を渡して呉れた。弥助は筆を渡すときに、九郎助の顔を見ながら、意味ありげに、ニヤリと笑った。それは、たしかに好意のある微笑だった。『お前を入れたぜ。』と云うような、意味を持った微笑であるように九郎助は思った。そう思うと、九郎助は後のもう一枚が、どうしても欲しくなった。彼の一枚が、自分の生死の境、栄辱《えいじょく》の境であるように思われた。忠次に着いて行ったところで、自分の身に、いゝ芽が出ようとは思われなかったが、入れ札に洩れて、年甲斐もなく置き捨てにされることがどうしても堪らなかった。浅太郎や喜蔵の人望が、自分の上にあることが、マザ/\と分ることが、どうしても堪らなかった。
かれは、筆を持ってぼんやり考えた。
「おい! 阿兄! 早く廻してくんな!」
横に坐って居る浅太郎が、彼に云った。阿兄! と云いながらも、語調だけは、目下を叱して居るような口調だった。九郎助は、毎度のことながらむっとした。途端に、相手に対する烈しい競争心が――嫉妬がムラ/\と彼の心に渦巻いた。
筆を持って居る手が、少しブル/\顫えた。彼は、紙を身体で掩いかくすようにしながら、仮名で『くろすけ』と書いた。
書いてしまうと、彼はその小さい紙片をくる/\と丸めて、真中に置いてある空になった割籠《わりご》の蓋の中に入れた。が、入れた瞬間に、苦い悔悟が胸の中にすぐ起った。
『賭博は打っても、卑怯なことはするな。男らしくねえことはするな。』
口癖のように、怒鳴る忠次の声が、耳のそばで、ガン/\鳴りひびくような気がした。彼は皆が自分の顔を、ジロ/\見て居るような気がして、どうしても顔を上げることが出来なかった。
吉井の伝助は、無筆だったので、彼は仲よしの才助に、小声で耳打ちしながら、代筆を頼んだ。
皆が、札を入れてしまうと、忠次が、
「喜蔵! お前読み上げて見ねえ!」と言った。
皆は、緊張のために、眼を輝かした。過半数のものは諦めて居たが、それでも銘々、うぬぼれは持って居た。壺皿を見詰めるような目付で、喜蔵の手許を睨んで居た。
「あさ、あゝ浅太郎の事だな、浅太郎一枚!」
そう叫んで喜蔵は、一枚、札を別に置いた。
「浅太郎二枚!」彼は続いてそう叫んだ。
又、浅太郎が出たのである。浅太郎が、此の二、三年忠次の信任を得て、影の形に付き従うように、忠次が彼を身辺から放さなかったことは、乾児の者が皆よく知って居た。浅太郎の声がつゞくと、忠次の浅黒い顔に、ニッと微笑が浮んだ。
「喜蔵が一枚!」
喜蔵は、自分の名が出たのを、嬉しそうに、ニコリと笑いながら叫んで、
「嘘じゃねえぞ!」と、付け足しながら、その紙を右の手で高く上げて差し示した。
「その次ぎが又、喜蔵だ!」
喜蔵は得意げに、又紙札を高く差上げた。
「嘉助が一枚!」
第三の名前が出た。忠次は、心の中で、私《ひそか》に選んで居る三人が、入札の表に現われて来るのが、嬉しかった。乾児達が自分の心持を、察して居て呉れるのが嬉しかった。
「なんだ! くろすけ。九郎助だな。九郎助が一枚!」
喜蔵は、声高く叫んだ。九郎助は、顔から火が出るように思った。生れて初めて感ずるような羞恥と、不安と、悔恨とで、胸のうちが掻きむしられるようだ。自分の手蹟を、喜蔵が見覚えては、居はしないかと思うと、九郎助は立っても坐っても居られないような気持だった。が、喜蔵は九郎助の札には、こだわって居なかった。
「浅が三枚だ! その次は、喜蔵が三枚だ!」
喜蔵は大声に叫びつゞけた。札が次ぎ/\に読み上げられて、喜蔵の手にたった一枚残ったとき、浅が四枚で、喜蔵が四枚だった。嘉助と九郎助とが各自一枚ずつだった。
九郎助は、心のうちで懸命に弥助の札が出るのを待って居た。弥助の札が出ないことはないと思って居た。もう一枚さえ出れば、自分が、三人の中に入るのだと思って居た。
が、最後の札は、彼の切ない期待を裏切って、嘉助に投ぜられた札だった。
「さあ! みんな聞いてくれ! 浅と喜蔵とが四枚だ。嘉助が二枚だ。九郎助が一枚だ。疑わしいと思う奴は、自分で調べて見るといゝや。」喜蔵は最後の決定を伝えながら、一座を見廻した。
誰も調べて見ようとはしなかった。誰よりも先に、九郎助はホッと安心した。
忠次は自分の思い通りの人間に、札が落ちたのを見ると満足して、切り株から立ち上った。
「じゃ、みんな腑に落ちたんだな。それじゃ、浅と喜蔵と嘉助とを連れて行こう。九郎助は、一枚入って居るから連れて行きたいが、最初《はな》云った言葉を変改することも出来ねえから、勘弁しな。さあ、先刻《さっき》からえろう手間を取った。じゃ、みんな金を分けて銘々に志すところへ行って呉れ。」
乾児の者は、忠次が出してあったうちから、銘々に十二両ずつを分けて取った。
「じゃ、俺達は一足先に行くぜ。」忠次は選まれた三人を麾《さしまね》くと、みんなに最後の会釈をしながら、頂上の方へぐんぐん上りかけた。
「親分、御機嫌よう。御機嫌よう。」
去って行く忠次の後から、乾児達は口々に呼びかけた。
忠次は、振り向きながら、時々、被《かむ》って居る菅笠を取って振った。その長身の身体は、山の中腹を掩うて居る小松林の中に、暫くの間は見え隠れして居た。
取り残された乾児達の顔には、それ/″\失望の影があった。
「浅達が付いて居りゃ、大した間違はありゃしねい!」
口々に同じようなことを云った。が、やっぱり、銘々自分が入れ札に洩れた淋しさを持って居た。
が、忠次達の姿が見えなくなると、四、五人は諦めたように、草津の方へ落ちて行った。
九郎助は、忠次と別れるとき、目礼したまゝじっと考えて居た。落選した失望よりも、自分の浅ましさが、ヒシ/\骨身に徹えた。札が、二、三人に蒐《あつま》って居るところを見ると、みんな親分の為を計って、浅や喜蔵に入れたのだ。親分の心を汲んで、浅や喜蔵を選んだのだ。そう思うと、自分の名をかいた卑しさが愈々堪えられなかった。
朝の微風が吹いて来て、入れ札の紙が、熊笹を離れて、ひら/\と飛びそうになった。
「あゝ、こんなものが残って居ると、とんだ手がかりにならねえとも限らねえ。」
そう云いながら、九郎助は立ち上って散らばって居る紙片《かみきれ》を取り蒐めると、めちゃ/\に引き断《ちぎ》って投げ捨てた。九郎助の顔は、凄いほどに蒼かった。
「俺《おいら》、秩父の方へ落ちようかな。」
九郎助は独言《ひとりごと》のように云った。彼は仲間の誰とも顔を合して居るのが厭だった。秩父に遠縁の者が居るのを幸に、其処で百姓にでもなってしまいたかった。
彼は、草津へ行った連中とは、反対に榛名の西南の麓を目ざして、ぐん/\山を降りかけた。
彼が、二、三町も来たときだった。後から声をかけるものがあった。
「おい阿兄! 稲荷の阿兄!」
彼は、立ち止って振り顧《かえ》った。見ると、弥助が、息を切らしながら、追いかけて来たのであった。彼は弥助の顔を見たときに、烈しい憎悪が、胸のうちに湧いた。大切な場合に自分を裏切って居ながらまだ身の振方をでも相談しようとするらしい相手の図々しい態度を見ると、彼はその得手勝手が、叩き切ってやりたいほど、癪に障った。
「俺《おいら》、よっぽど草津から越後へ出ようと思ったが、よく考えて見ると、熊谷在に伯父が居るのだ、少しは、熊谷は危険かも知れねえが、故郷へかえる足溜りには持って来いだ。それで俺も武州の方へ出るから、途中まで付き合って呉れねえか。」
九郎助は、返事をする事さえ厭だった。黙ってすたこら歩いて居た。
弥助は、九郎助が機嫌が悪いのを知ると、傍《そば》へ寄った。
「俺あ、今日の入れ札には、最初から厭だった。親分も親分だ! 餓鬼の時から一緒に育ったお前を連れて行くと云わねえ法はねえ。浅や喜蔵は、いくら腕節《うでっぷし》や、才覚があっても、云わば、お前に比べればホンの小僧っ子だ。たとい、入れ札にするにしたところが、野郎達が、お前を入れねえと云うことはありゃしねえ。十一人の中《うち》でお前の名をかいたのは、この弥助一人だと思うと、俺あ彼奴等の心根が、全くわからねえや。」
黙って聞いた九郎助は、火のようなものが、身体の周囲に、閃いたような気がした。
「此の野郎!」そう思いながら、脇差の柄《つか》を、左の手で、グッと握りしめた。もう、一言《ひとこと》云って見ろ、抜打ちに斬ってやろうと思った。
が、九郎助が火のように、怒って居ようとは夢にも知らない弥助は、平気な顔をして寄り添って歩いて居た。
柄を握りしめて居る九郎助の手が、段々緩んで来た。考えて見ると、弥助の嘘を咎めるのには、自分の恥しさを打ち開けねばならない。
その上、自分に大嘘を吐いて居る弥助でさえ、自分があんな卑しい事をしたのだとは、夢にも思って居なければこそ、こんな白々しい嘘を吐くのだと思うと、九郎助は自分で自分が情なくなって来た。口先だけの嘘を平気で云う弥助でさえが考え付かないほど、自分は卑しいのだと思うと、頭の上に輝いて居る晩春のお天道様が、一時に暗くなるような味気なさを味った。
山の多い上州の空は、一杯に晴れて居た。峰から峰へ渡る幾百羽と云う小鳥の群が、黄《きいろ》い翼をひらめかしながら、九郎助の頭の上を、ほがらかに鳴きながら通って居る。行手には榛名が、空を劃《くぎ》って、蒼々と聳えて居た。